JR青梅線軍畑駅から東へ段丘を下りた所に、「鎧塚(よろいづか)」と呼ばれる小さな円墳があります。この塚は、戦国時代の永禄6年(1563)、多摩川上流域を支配し、辛垣城(からかいじょう)に拠る三田氏と、八王子付近一帯を支配する滝山城主北条氏が、多摩川を挟んで激戦を展開した「辛垣の合戦」の折、その戦死者の鎧や兜を埋めるために築かれたとされています。鎧塚は直径約30m、高さ約9mで、頂上には小さな社が建てられており、すぐ脇を旧鎌倉街道が秩父方面へと通っています。
また、この付近の「軍畑(いくさばた)」という地名もこの戦いに由来していると言われています。青梅街道沿いのJR御岳駅前の遊歩道を 多摩川に架かる軍畑大橋から、上流側と下流側の眺めをそれぞれ比べてみると、この橋の付近から川が広がっており、渓谷が少しずつ河川へと変化していく様子がよくわかります。
辛垣の合戦
滝山城主北条氏照は、多摩川上流域にまで支配が及ぶ勝沼城主三田綱秀を討つため、軍勢を率いて西を目指していました。それを迎えうつ三田勢は、平城の勝沼城(青梅市)を出て、小城ながら険しい山の上にある辛垣城に移動し、防戦の構えを見せていました。永禄6年(1563)、多摩川を渡り始めた北条勢へ、三田勢は対岸から激しく応戦。「辛垣の合戦」が始まりました。
数で勝る北条勢は次第に三田勢を攻め込み、対岸へ上陸。険しい山道に攻め倦むも、辛垣城下の急斜面に火を放ちました。炎はみるみるうちに辛垣城を包み込み、ついに三田氏は敗北してしまったのです。落城のときに読まれ た綱秀の和歌が残されています。
辛垣の南の山の玉手箱
あけてくやしき我が身なりけり 綱 秀
軍畑駅付近から望む「鎧塚」
軍畑大橋より多摩川上流を望む
大きな岩はだんだん減り、川幅も広がってくる
軍畑大橋より下流を望む
辛垣城址がある辛垣山を含む山並みが見える