笠取山を源流とする丹波川と柳沢峠を源流とする小菅川は、ともに奥多摩湖に注いでいますが、奥多摩湖は小河内ダムで流れを堰き止めたことで生まれた人造湖です。小河内ダムは、東京都民の水道水の安定供給を確保する目的で昭和32年に完成。現在も首都東京を支えています。
小河内ダム建設に至るまでの経緯は意外に古く、すでに大正15年よりダム建設候補地の調査は開始されていました。候補地の中から水量や地質等の立地条件などを勘案し、条件が揃った東京都小河内村が最終的に選定されたのです。ダム建設計画が発表された昭和6年6月、小河内村は絶対反対を表明しますが、「幾百万市民の生命を守り、帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」との再三に渡る説得に、昭和7年7月、小河内村はやむを得ず了承。ダム建設用地の買収が始まったのです。
昭和13(1938)年に着工。途中、第二次世界大戦の勃発により工事は一時中断されますが、終戦後まもなく再開。昭和32年11月に竣工しました。一方、ダム建設にあたり、小河内村と山梨県丹波村及び小菅村の945世帯が移転を余儀なくされ、もとの町並みは湖底へと沈みました。なかでも、全村が水没した小河内村民は、工事期間が長引いたこともあり大変な心労と負担を強いられたということです。
「湖底の故郷」の歌碑
故郷を失った村民の悲しみの詩が刻まれている
高さ149m、総貯水量1億8540万m3は、建設当時は世界一の規模だった。
湖から見た小河内ダム
建設工事では87名の殉職者を出した。対岸に慰霊碑が立つ。