江戸城大改修に伴う御用石灰運搬のために、武蔵野の原野をまっすぐに開き、石灰石の産地である青梅の成木と江戸を結んだ青梅街道ですが、当時の街道のルートは現在とは多少異なっていました。近世になり、大工場の進出や多摩飛行場(現横田基地)の建設、大規模な住宅団地の造成等により街道は大きく迂回させられてしまったのです。
現在の青梅街道は、西武東大和市駅前から多摩湖方面へ北上し、狭山丘陵の麓を縫うように通っています。また、交通量が急増した昭和40年代に、青梅街道の南側に新青梅街道が開通しました。しかし、従来の青梅街道は、新青梅街道よりもさらに南側、現在「桜街道」及び「江戸街道」とされているルートを通っていました。都営村山団地から日産自動車村山工場跡地を横断し、現横田基地内で旧日光街道と交差。そして、羽村市の北部をかすめて、青梅市新町から石灰の産地、成木方面へ続いていました。現在の青梅街道は多摩川に沿ってさらに延びており、奥多摩から塩山へ抜けています。
【写真1】高層化の進む都営村山団地
江戸街道(旧青梅街道)は今も重要な生活道
【写真2】青梅橋交差点(西武東大和市駅前)