玉川上水開削当時から江戸は巨大な消費都市であり、人口も増加の一途を辿っていました。国内各地の作物や商品が江戸へ集まってきたのです。多摩地域で収穫された農産物も、農民の持ち馬によって江戸へ運ばれていました。青梅街道や五日市街道、甲州街道などは、様々な品物を運ぶ農民たちで賑わいました。玉川上水も江戸時代から輸送ルートとして着目されてはいましたが、幕府の許可が得られないでいました。
明治維新直後の明治3年、砂川、福生、羽村の名主などが玉川上水通船の許可を出願したところ、ついに新政府より許可が下りました。通船に先立ち、船の運行に支障がある低い橋の架け替えや、舟溜、荷物集積所等の建設が行われました。江戸への最短距離であり、大量の物資を短時間で運ぶことができるルートであったため、最盛期にはおよそ100隻ほどの舟が上水を行き交いました。多摩地域はおろか、甲州や信州からも物資を集めて東京へと運び込まれ、東京からも様々な物資が積まれて行きました。荷物ばかりでなく、舟賃を取って人を運んだ舟もあったそうです。
ところが、盛況を極めた通船も、東京市民の飲み水である上水を汚すという理由で、約2年後の明治5年5月に廃止させられてしまいます。同年9月には、新橋~横浜間で我が国で初めての鉄道が開通。鉄道の時代が幕を開けたのです。多摩地域でも玉川上水の土手に馬車鉄道を走らせるという計画が発展して、明治22年に甲武鉄道(中央線)が開業。ついで青梅鉄道(青梅線)、川越鉄道(西武国分寺線)が開業し、多摩と東京は急速に結ばれていったのです。
当時使われていた舟着き場への階段(羽村堰付近)
立川市砂川町の見影橋付近
当時このあたりに「巴河岸(ともえがし)」という舟着き場があった