玉川上水が完成したのは、江戸幕府第4代将軍家綱の時代。徳川家康~秀忠~家光という3代の将軍の間に江戸の町は急速に発展し、人口も急激に増加しました。それにつれて庶民の生活用水が不足し始め、江戸への水を確保することが幕府の急務となったのです。そして、家綱の時代に、多摩川の水を江戸へ引きこむ「玉川上水の建設」が計画されました。工事の担当者は、後に「玉川」の姓を与えられる加藤庄右衛門・清右衛門兄弟。
武蔵野の地形は高低差が少なく、上水道を引くのは困難とされていましたが、兄弟はさっそく多摩川からの取水口の調査に取り掛かります。
最初は日野橋の下から水を引き込む計画を立てます。しかし、府中八幡下の御滝で、でこぼこの地形に水が遮られ失敗。次に、福生の熊川から引き込む計画を立てますが、これも試験通水してみると、熊川村の地点で「逃げ水」という水が地中に吸い込まれる奇現象にあってしまいます。今でもこの地点は「水喰土(みずくらいど=水を食う土地)」と呼ばれており、当時の旧堀跡や土手がそのまま残されています。このような状況の中、計画は難航を重ね、一時は幕府も玉川上水の建設をあきらめてしまいます。しかし、江戸に水を引くのは幕府の仁政であるとの意見が強く、工事は再開。精巧な測量の結果、多摩川が大きく蛇行し、条件が整っている羽村に堰を設けることになったのです。
羽村堰 玉川上水はここで多摩川から分岐する
玉川兄弟像